努力することについて、「努力」という言葉について

最近「努力」という言葉について、ジャーナリストの佐々木俊尚さんを中心にTwitterで色々議論がありました。
佐々木俊尚さんのツイートまとめ/努力しても報われない今後の社会では「いかにして身の丈に合った諦念を受け入れられるかが個人の幸せを左右する」 - Togetter

「努力」について、私の私見を思いつく順番でまとめておこうと思います。

まず、「努力する」という言葉を盲目的に重視する人は、「何のためにその努力するのか考える努力」を怠る傾向があると思います。努力する意味を考える努力を怠っているような。。
よって、「努力する」という言葉で思考停止を正当化するような、日本に昔からよくある風潮は超ナンセンスかと思います。というか、この所謂体育会系っぽい雰囲気、だいきっらいです!!!
例えば、数日前のエントリーで紹介した青木薫さんの記事にあるような事実があるなか、100m走でオリンピックを目指す中学生に「とりあえずひたすら努力すれば叶う!」ということのアドバイスの価値はどうでしょうか。思考停止を伴う努力は、悲劇に繋がる可能性が相当高いと思われます。
『花火のふしぎ』 - HONZ
私は、努力を勧める際には、相当考えつくさないといけないと考えており、私個人は他人に努力を勧めることは殆どありません。「努力しないとダメだ!」なんてほぼ絶対にいいません。ギャグでしかいいません笑
これが「努力」を勧める側としての私のスタンスです。

そして、「努力」をする側としての私のスタンスですが、私は努力が報われるかどうかを議論することがあまり意味がないと思っています。そもそも自分がしたいことに没頭しているなら、それが他人から努力と見られようが、見られまいが、自分が納得している限りどうでもいいですしね。
あと、仮に「努力」の結果、大成功して、短期的に努力が実ったように見えても、中長期的にその成功が遠因となって、より大きい失敗することもあるし、努力が空回りして塗炭の苦しみを味わい続けたとしても、その経験がゆくゆく大きな成功を導く原動力になることなど、超よくあることです。
つまり、努力が報われる、報われないなんて、時間軸をどうとるかでころころ変わるし、もっといえば、本人の解釈次第で何とでもなることだと思います。このことに拘ってしまう人は、やはり「多くの人に認められたい」「羨ましいと思われたい」という気持ちが強すぎるのだと思います。そういう方は、他人がどう思うかは二の次、三の次で、自分の内なる声を優先すべきなのかも知れませんね。

すべては今この瞬間、自分の直感と内から湧き上がる声に正直に従い、情熱を感じることに没頭しているか、自分の好奇心を炸裂させる日々を送っているか、その点を自分自身が徹底的に納得している限り、この問題はそもそもたいして問題にならないと考えています。
これが私の「努力」をする側としての私のスタンスでした。