洋書を読むと、読書習慣がなかった頃を思い出す

2年前から「翻訳本を読まない。読むなら原著で読む」という無茶なルールを課して以来、面白いノンフィクションの大半が海外モノであることに気づき、愕然としながら今に至ります。そしてiPhoneにインストールした辞書片手にひたすら洋書を読む日々なのですが、洋書を読んでいて、本の内容以外にいろいろと思うことがあります。

一言でいうと、読書習慣がなかった頃のことを思い出します。
今は、日本語で書かれた本を開き、そこに書かれている文章をざっとみると、なんとなくその本の「雰囲気」のようなものが瞬間的にわかります。そこで、その本が美味しそうか、そうでないか直感的にピンときます。これは本当に感覚的で瞬間的な話なので言語化するのは難しいのですが、本当にそうです。「文章を見る」ということは、その文章を構成している単語を見ているということであり、その数々の単語の配置、他の単語との連関性をざっくり把握した上で、自分の今まで読んできたものと比較して「雰囲気」を判断しているのだと思います。本当に内容は理解できなくても、雰囲気だけはわかります。
これって、今までは特に意識していなかったのですが、私が大量の日本語の本に目を通してきたなかで自然に体得したものとわかりました。
そして、この事実に気づいたのが洋書を読む習慣を得てからです。
英語に関しては、正直読めば意味はわかります。そして単語も調べる必要があるものもありますが、大半はわかります。しかし!ぱっと見たときに「雰囲気」が掴めません。まだ頭の中にその「単語と単語の連関性」がなく、雰囲気が掴めないんでしょうね。
そして、一番訴えたいことは、本の雰囲気を感じ取れるようにならないと、読書は全然面白くない!ということです。
その雰囲気を感じ取れるまで色々工夫して辿りつけるかどうかが本読みになるかならないかの分水嶺なんでしょうね。