第11冊目『ビアフラ潜入記』、第12冊目『写真集ビアフラ』

ビアフラ潜入記 (1970年)

ビアフラ潜入記 (1970年)


ビアフラ―高橋直宏写真集 (1970年)

ビアフラ―高橋直宏写真集 (1970年)

長らく時間が空いてしまったが、現行の翻訳プロジェクトの傍ら書評を再開したい。元々このブログでは書評を書いていたが、翻訳プロジェクトを始めたので中断していた。しかし、成毛眞さんに当ブログをご紹介いただいたことに触発され、執筆意欲が抑えられなくなった(書棚のサイズについて - 成毛眞ブログ)。

今回はアフリカ関連書籍の続きになる。前回の最後に、次回からは「コンゴ」をテーマとすると書いたが、前回と今回との間があまりに長期間になってしまったため、もう少し前回のテーマ「ビアフラ戦争」で足踏みしたい。
この戦争についての詳細は以前の書評(第5冊目 『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』 - YOSHIHISA YAMADA’s Blog / 山田義久Blog第10冊目 『ビアフラ物語―飢えと血と死の淵から (1982年)』 - YOSHIHISA YAMADA’s Blog / 山田義久Blog)を参照してほしいが、下記自分のための復習の意味も込めて簡潔に概要を記してみる。

かつて、アフリカには「黒いユダヤ人」と呼ばれた人々がいた。
「白いユダヤ人」、つまり本家本元のユダヤ人は中東の地にイスラエルを建国し、1948年の独立以来、四面楚歌の状況で常に滅亡の危機に置かれながらも、4つの戦争を勝ち抜き現在に至るまで強かに繁栄を謳歌している。イスラエルの存続を可能にした優秀な軍隊と情報機関、そして指導者層の徹底的なプラグマティズムは、善悪はともかく「戦略」という言葉の本質を考える際、示唆に富む。
一方、「黒いユダヤ人」とは、ナイジェリア東部に住んでいたイボ族と呼ばれる民族を指す。その向学心の高さと勤勉な態度により社会の上位層を占めることが多いので「黒いユダヤ人」と呼ばれるようになった。そして、主に彼らが住んでいたナイジェリア東部は「ビアフラ」と呼ばれていた。
1967年、国内における迫害に業を煮やした東部地方のリーダー、オジュク将軍は、東部を独立させ、ビアフラ共和国を建国する。
そして、その独立を阻止しようとしたナイジェリア政府軍とビアフラ共和国との間に戦争が勃発する。これが1967年から1970年まで続いたビアフラ戦争だ。
この戦争の特徴として、ナイジェリア政府軍が戦争手段として飢餓を意図的に使ったことがある。具体的には、ビアフラの四方を完全封鎖し、飢餓を引き起こさせ、軍人、民間人すべての殲滅を狙ったのだ。食料の補給を断たれたビアフラ国内では、戦争が長引くにつれ、まさに地獄絵図の状態になった。
実は、そのような極限状態にあったビアフラに潜入した2人の日本人がいた。一人は新聞記者、もう一人はカメラマンだ。
今回紹介するのは、その新聞記者が書いたルポタージュと、そのカメラマンが撮影した写真集だ。二人はビアフラ滞在中、行動を共にして基本的に同じものを見ている。よって、ルポルタージュの文章を読みながら、写真集の写真で理解を補完することができる。前回紹介した『ビアフラ物語』の著者フォーサイスは、意識的にビアフラよりの視点で書いている。一方、我々日本人はこの戦争に関わった国々に直接の政治的関係がない分、著者はビアフラの惨状を前にしても、より中立的な立場からの報告を試みている。その意味で非常に価値のある歴史的資料ともいえる。
この本も写真集も今は絶版で、私はアマゾンで入手した。しかし、本書の価値を考えると再販も考えられてようのではないかと思う。

具体的な内容についてだが、ルポルタージュの冒頭はビアフラに入国するための奮闘の描写から始まる。著者達はビアフラの在外大使館に通い詰め入国許可を交渉するが、当時は既に戦争末期で飢餓の極限状態もピークであり、数少ない航空便のスペースに食料以外に入るものの余地はなく、交渉は難航する。
以前も紹介した「フランシーヌの場合」(当時日本で大流行した歌謡曲。ビアフラを嘆いて焼身自殺したフランスの女子学生フランシーヌ・レコントについて歌った曲)のレコードを片手に日本人のビアフラに対する関心をアピールしたりと、その奮闘ぶりが詳述されている。
そして、何とか航空機で入国するも早速機体に砲弾の洗礼を浴びたりと、このあたりのリアリティはさすがルポルタージュだ。
現地入国後は、飢餓の現実を取材していくのだが、歩き回って集めた現地人目線の情報だけに極めて生々しい。例えば著者達はいやに顔の白い黒人を目撃する。現地同行者に「白人との混血か」と問いただしたところ、苦笑しながらアカンベエをする。これはふざけたわけでなく、栄養不足で毛細血管の赤らみがなくなり、魚のように白くなったまぶたの裏を見せたのだ。つまり、「白い黒人」とは栄養不足により体の色素が抜けてしまった状態なのだ。
また、暑い日には40度近くまで上がる気温と湿度100%のビアフラでは、人々は絶え間なく発汗するので、食糧危機に中、塩の価値が異常に高騰している。一握りの塩のために女性が身体を売るという悲劇も変わったことではなかったらしい。
このような惨状の一方で、著者は政府が外人記者向けに開いたクリスマス・パーティも取材する。政府高官や高級将校とその婦人達が着飾って参加するそのパーティは明らかに不利な戦況をごまかすためのプロパガンダだ。なぜなら、飢えた子供達が会場に忍び込み、参加者の足元で食べ物を求めて床を這いずり回るパーティは、明らかに健全な国ではありえない。
実際、ビアフラの指導者層もナイジェリア政府側も、この戦争の推移について大きな誤算があったようだ。著者によるとオジュク将軍は「2、3ヶ月もてば、敵はこの戦争のバカバカしさに気づいて帰ってしまうだろう」と部下を励ましていたらしい。それが内戦は30ヶ月間続き、双方で10億ドルの軍費、200万人の犠牲者が出るとは双方にとって誤算だったようだ。
当然双方が合意すれば、もっと戦争を早く終結させそのような被害者を出すことを未然に防げただろう。しかし、当然ビアフラ側も政府側もそれぞれの大義を掲げ戦ったのであり、その正当性の追求はここではすべきでないだろう。
ただ本書内の記述によると、ビアフラの指導者は飢餓が迫りくる中でも一定のノブレス・オブリージュは堅守したようだ。著者によると、黒人の方々は強い体臭を持っているが、飢餓が進行し、栄養失調が慢性化する中でその体臭は消えていったらしい。そして、筆者は大臣級の人物と会見していくのだが、誰一人として体臭が残っている人はいなかったらしい。
その後、ビアフラ共和国の崩壊直前まで筆者達は滞在し、その様子と脱出までの過程を描写する。詳しくは実際に本書の参照して欲しいが、本当に鬼気迫るものがある。極限状態の中では外人新聞記者でも現地避難民でも置かれた条件の差は徐々になくなっていくのだ。

最後に、本書で紹介されている日本人を一人紹介したい。というか紹介せずにこの書評を終われない。
その方は、商業デザイナー清水啓子さん(当時28歳)と言う方だ。
清水さんは、東京にてビアフラ崩壊のニュースを深い悲しみで聞いていた。
というのも彼女の夫は、ヒヤシンス・E・アニヤヌウさん(当時28歳)といいビアフラ放送の技術者として現地で自国の最後まで関連機器を操作していたはずなのだ。彼女は生活を切り詰め貯蓄をし、夫の無事を祈りながらあの手この手で食料を送り続ける。そんな中、実は著者は現地滞在中にヒヤシンスさんから清水さんへの手紙を託されている。その時描写を下記抜粋する。今再読しても、目頭が熱くなる。

私がヒヤシンス君とあったのは、オウェリ刑務所から24体の白骨が出てきた日だった。(ビアフラ共和国の)市民たちはこの不吉なニュースと、婦女暴行や"空飛ぶ地雷"の噂の中で、おびえきっていた。死体発掘の現場から海外報道部の事務所に引揚げたとき、ヒヤシンス君がそこにいた。日本人が来ているという噂を聞いて、オウェリ(ビアフラの首都)から約30キロ離れたオクウドから歩いてきたのだという。汗とほこりにまみれた腕に、ビニールのカバンを持っていた。中に啓子さんの古びた手紙と写真があった。
「日本のかたが、いつかはビアフラを助けに来てくれると思って、待ってました」
人なつっこい笑いを浮かべ、ほとんど忘れかけて日本語でいった。オウェリは狂乱の巷であり、すべてが手遅れなのは彼にもわかっているはずだった。しかしヒヤシンス君は、
「親切な日本人が、ビアフラの人を、捨てることないと思っていた。私は正しかったネ」
と私の手を握る。それから啓子さんから送ってもらったチーズが、どんなにおいしかったか、しゃべり続けた。彼は幸福そうにすらみえた。
しかし彼の皮膚はやや黄ばんでいた。栄養不良の最初の兆候である。
「一日に何回食事をしていますか」
「一回の日、多いです。だけど奥さんにいいませんね。三度食べて、元気で働いてるといってください」
彼をプログレスホテル(著者が滞在しているホテル)に連れて行き、ビスケットにマーマレードを塗ってすすめた。二枚しか食べなかった。もっと、とすすめると、
「こんなおいしいものは、少し食べただけで、おなかがいっぱいになる」
と満腹のジェスチャアをした。私もビスケットを五枚しか持っていなかった。食料を入れた袋の中身が、ちらっと見えたらしかった。彼は啓子さんのためにハンドバッグを、私のために肩から吊るすカバンを買ってきていた。両方とも避難民が食費かせぎのためにヤシの葉を裂いて編んだもので、かなり高価だった。啓子さんへは手紙もあった。
「ソーセージを送れと書きました」
と彼は笑った。
「あす、私と日本に行けたら、奥さんはどんなに喜ぶでしょう」
「そうですね。生き残りたい。でもいってください。東京の奥さん、きっと迎えに行くからって」
時間がない、と彼は帰りを急いだ。敗走兵らしい若者のグループと並んで、密林へ去って行く彼の後ろ姿を、私はつかんで引き戻したいと思った。今ならまだ間に合う。ウーリー飛行場はまだ安全な世界につながっている。そして今たてば一週間もかからず東京に着ける…

そして、著者は日本に帰国後その足で、清水さんに夫からの手紙を届けにいく。下記はその時の描写の抜粋だ。

啓子さんは杉並区成宗の、古い木造アパートに住んでいた。私の話を聞きながら彼女は結婚当時のアルバムを出してきて、「この顔をみて、どれくらいやせたのですか」とせきこんでたずねた。彼女の手元には、「オウェリ市陥落」「ウーリー飛行場破壊」と、いまヒヤシンス君の身辺で起こっている激動を伝える新聞が切り抜かれていた。
「いますぐ、私がビアフラに入る方法はないでしょうか」
すでにビアフラはナイジェリア軍によって"フタ"をされ、新聞記者ももう行くことはできなかった。そして国家の宣伝機関であったビアフラ放送のスタッフを、ナイジェリア軍が丁寧に扱うはずがなかった。監禁されるか、密林に逃げるか、どちらかだった。
「食費まで切りつめた千ドルの使いみちがなくなった」
冷静だった彼女が、顔をゆがめて横ずわりした。六畳一間の部屋には、目ぼしい家具といえば本棚と小さなタンスしかなかった。本棚には、68年のクリスマスに送ってきた彼の絵が飾ってあった。ヒヤシンス君が放送用の機械を操作している。その前で二人の青年がビアフラ将棋をしている。照れ屋の彼は横向きだった。ビアフラには写真のフィルムも、現像焼付の機械もなくなっていた。だから写真のかわりに絵を送ってきたのだろう。
絵にそえた詩にはこう書いてあった。


きのうの災難も
きょうの幸福な思い出にかわる
  ――最高の、真実の愛の言葉を私の妻へ。

その後ご主人の安否、また清水さんがご主人と再会できたのかわからない。
現在、この出来事以来ほぼ40年近くたっていて、ご本人を取り巻く状況も今は大きく変わっているだろう。
ただ、この話は絶版本の中で風化させてはいけない話だと切に思う。