第9冊目 『『こころ』は本当に名作か』

『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

 今回もアフリカから脱線だ。
 次に読む本を選ぶのに参考にしている書評はいくつかあるが、最も参考している書評の一つにマイクロソフト日本法人元社長でインスパイア社長の成毛眞氏のブログ(成毛眞ブログ)がある。
 本書は、先日そのブログで成毛氏のコメントが面白かったことと(2009-04-21)、また、書店で立ち読みしたところ、斜め読みでも分かる著者の毒舌に感銘を受け、即購入した。

 本書はブックガイドなのだが、著者の基本スタンスは「文学作品に普遍的な価値基準は存在しない」ということである。
 その理由は、そもそも日本で「文学を藝術として読む人」が10万人くらいのマイノリティでしかないし、またある文学作品に共感するかも、老若男女という違い、もてる男女もてない男女との違い、結婚したことある人ない人との違い等々、読者の年齢、経験、素質、趣味嗜好に左右されると著者は言う。著者にとっては、結局は「好き嫌いの問題」なのだ。
 そのようなスタンスを踏まえて、著者は東西文学の万巻を読破する中で感じた「本当の名作」と「"名作"と言われている駄作」を、大胆に分類していく。「確かに"普遍的な基準"はないが、少なくともオレはこう思う!」という著者の強い意志を文脈に感じ、圧倒されることもしばしばだ。

 私は、本書を読んでまず、東西文学の万巻を読破した著者を率直に敬意を抱く。
 しばしば色んな分野において、「量」と「質」の議論がなされるが、「質」を重視する昨今になっても、私はいつも「量」は偉大だと思う。よって、本書のまえがきで「日本や外国の文学作品をほぼ読み終えた」と言い切れる著者に敬意を抱くし、その意見を拝聴したいと素直に思う。
 本書内で各作品に対する辛辣な意見が多いのも、見てきた作品の量が多いので、各作品の中で他作品と比べて「足りない」と感じてしまう部分が見えてしまうからだろう。「情報のプロは、そこに何が書いてあるかを分析することが主眼でなく、何が書いていないかを分析することが肝要」というが、まさに著者は文藝のプロなのだろう。
 しかしさらに特筆すべきと思う点は、著者は自分の積み上げた造詣を用いて、既存の権威に迎合し、自分に崇高な雰囲気を与えるような演出を文中に含めないことだ。
 著者は、「分る」ということを「面白い」と定義して、自分にとって「面白い」と感じた作品であれば「分る」と明言し、面白くなければ、どんなに権威ある作品でも、その作品は「分らない」と言明する。面白いか面白くないかの判断の元は、著者の今までの人生体験であり、その判断の元となっている著者の人生体験までも本書には随所に描かれているので、自分も紹介されている作品に共感できそうか、割と深く精査できる。
 著者は、その知的正直さに加えて、「小説は、その作者や書かれた時代について何も知らずに読むことができない」という信念を持っている。よって、本書でも各作品の作者の人柄、時代背景について分りやすく説明する。私も同じ考えを持っていて、例えば、ユゴーが『レ・ミゼラブル』で人間の持つ罪悪感や良心を"1862年"という時に描いたことが、当時の社会においてどのような意味を持ったのか、100年以上たった今普通に読んだだけの私には分っていない気がする。
 この意味で、私にとって、著者の評価は二重、三重に面白かった。
 副タイトルにもあるように、著者は自分の内面から来る声を無視しない「正直者」という印象を強く受ける。勝手な予想だが、数々の文藝作品内世界の疑似体験と、その膨大な読書の中で培ったボキャブラリーが、著者の感受性を極めて鋭敏にしていて、時に著者自身その「内面から来る声」を処理しきれないこともあり、強く悩んだりすることもあったと見受けられる。著者の他の著作のタイトルを見ても、自分の内面からの声と真正面に向き合って、戦ってきたのか軌跡が窺える。
 私は、著者のその正直さを貫き、悩みから逃げない姿勢を、本書を読みながら尊敬した次第だ。

 最後に小説に関する私見と著者の意見を対比させたい。
 私にとって小説は、そもそもそんなに読んでいないが、ちょっとした空想の旅であり、評価の対象というより、海外の文化遺産を見るときのように、「ああ、こういうもんなのね」というスタンスで、まずそのまま情報として受け入れるものだ。 
 一方、私の体験が特異な点は、殆どの日本文学を海外留学中に読んだ点である。つまり、薄っすら日本語飢餓状態であり、薄っすらホームシック状態の中読んでいるので、日本文学に関してバブル的評価をしているのは否めない気がする。

 まず、書名にも入っている夏目漱石の『こころ (新潮文庫)』だが、著者は酷評している。私が『こころ』を読んで思ったことは、「この手紙いつまで続くねん」ということと「こんなに長い手紙を送られたら、さぞかし封筒分厚かっただろうなぁ〜」というくだらないことであった。
 一方で、当時、武者小路実篤友情 (新潮文庫)』等も読んでいたので、「日本文学はやたらと内面吐露小説が多いのか、それも人間心理の琴線を描くという意味で一つの道だなぁ」などと考えていた。自然描写と心理描写が掛け合わさせて、あたかも読者の脳裏に"一枚の絵画"のような連想を与える場面が多く、それが、日本文学と北野武の映画を海外で高い評価にしている理由なのかと考えていた。そのような視点は、ある意味日本人以外の人には新鮮なのか、、など考えていたことを思い出す。
 このように私は『こころ』は、それはそれで楽しめた。

 次に、著者が「壮大な失敗作」と評する三島由紀夫豊饒の海』四部作であるが、これは、私が経済学に開眼するきっかけになった本、榊東行『三本の矢〈上〉三本の矢〈下〉』の中に二部作目『豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)』の抜粋があったことが縁となって、『豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)』から読み始めた。
 私としては、遠く離れた異国の地で、日本の昭和初期の雰囲気を味わえただけで儲けもんと思っているので楽しめだが、日本にいる今、読もうと思うかと言えば、確かに疑問符が付く。
 しかし、映画化もされた第一部『豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)』は、清顕がなぜ急に聡子を追う気になったのかという重要な点がよく分らなかったが、最後に出家した彼女を追って山中を駆けていく場面の描写などはとても美しかったと思う。私の中では駄作ではない。
 第二部『豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)』も、勲の思想についていけない部分がありつつも、当時はそんな人達も生きていたのだろうなぁと、それなりに楽しめた。
 しかし、第三部『豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)』、第四部『豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)』ともなると、唯一四部作すべてに登場する本多がおかしくなりはじめ、その世界観もレズやノゾキとちょっと付いて行きにくい世界に入ってしまう。今回、著者に「三島由紀夫は同性愛者が定説」との指摘を受け、妙に納得した。しかしながら、後半に再登場する聡子の存在感は大きく、今に至るまでその印象は脳裏に焼き付いている。

 最後に、著者が川端康成の傑作ではないと評する『雪国 (新潮文庫)』であるが、私は内容を殆ど思い出せない(実は『山の音 (新潮文庫)』も読んだのだが、内容が思い出せない)。
 しかし個人的には、この作品には、思い入れがある。この本は、私が、留学中に国内のスキー場に行くために、早朝に電車に乗り就寝していたら、なぜか起きたらスイス・ジュネーブにいたということがあり、その国内に引き返すためのUターンの社内で読んでいたからだ。Uターン用の電車が来るまでの待ち時間もあったので、かなりの時間ができ(おかげでスキー場には大遅刻だった)、その時間を利用して読んでいたのが、たまたま『雪国』だった。
 よって、私には、

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。そこは切り立った冷たい感じの山が並ぶアルプス山脈であり、私は約束の時間に大遅刻だった。夜の底が白くなるころにそこを通過するはずが、とっくに日は昇りきっていた。ローカル駅一つ一つに汽車が止まるのをイライラしながら見守っていた。

 ということになる。
 そんな思い出も今は懐かしい。

[読書候補本メモ]

源氏物語(全10巻セット) (講談社文庫)

源氏物語(全10巻セット) (講談社文庫)

荒涼館 全4巻セット

荒涼館 全4巻セット