第5冊目 『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』

ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 (ヒストリア)

ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 (ヒストリア)

 下記、前々回の書評『戦争の犬たち (上) (角川文庫)』の冒頭である。

 その夜、叢林地帯の中に拓かれた飛行場の上空には星もなく、月もまた見えなかった。西アフリカの暗黒が、暖かく湿ったびろうどのように、あちこちに散らばった人の群れを包んでいた。雲がイロコ樹の梢にとどきそうなほど低く、垂れ込めていた。闇の中で息をひそめて待っている人々は、雲が一ときでも長くそこにとどまって、上空を飛翔する戦闘爆撃機の視界をふさいでくれるようにと、祈った。
 進入(アプローチ)の最後の15秒間だけ点灯された誘導燈をたよりに、かろうじて着陸したばかりのぽんこつDC4型機が、滑走路の末端で方向を変えて、ヤシの葉で屋根をふいた小屋のほうへ、エンジンを咳き込ませながら、進んできた。
 政府軍のミグ-4型夜間戦闘機が、上空を西へ、駆け抜けていく。おそらくそのパイロットは、夜間飛行がこわくて使いものにならないエジプト人に替わるため3ヶ月前に送り込まれてきた6人の東ドイツパイロットの一人なのだろう。ミグの姿は雲にさえぎられて地上から見えないが、そのパイロットにも滑走路は見えないはずであった。おそらく着陸誘導灯のきらめきを懸命にさぐっているだろうが、ライトは消されたままだった。

 このように『戦争の犬たち』のストーリーは、ジャングルの中の小さな飛行場から始まる。その飛行場は敵軍から狙われており、爆撃を企む敵の戦闘機が上空を飛び回っている。時間帯は夜であり、電灯をすべて消すことで、上空から敵に確認されることを防いでいる。この飛行場周囲には、敵の襲撃から逃れてきた人々が数10人が息を潜めている状態だ。その「数10人」は、殆どが戦闘中の装いをしている。
 その飛行場に、ある"南アフリカの白人傭兵"がDC4型機を操縦し、当飛行場に着陸する。そこが、すべての話のスタートだ。彼の名前は、ヴァン・クリーフ。彼は、特に誰かに命じられたわけではないが、自分の意志で、その「数10人」の中の指導者を救助しに来たのだ。
 その「指導者」は、黒人なのだが、イギリスのパブリック・スクール出身者のアクセントを持った英語を話し、戦闘服姿ながら、言うにいわれない気品を放っている。どちらかというと黒人を蔑視する傾向があるヴァンも、初対面ながらその指導者のことを思わず「閣下(Sir)」と呼んでしまう。
 ヴァンの好意に関わらず、その「閣下」には、既に、脱出のためコンステレーション飛行機が別に準備されており、「閣下」はヴァンの申し出を丁重に辞退する。

 その様子を他の仲間とともに木陰より見ていたのが、『戦争の犬たち』の主人公シャノンである。彼はその仲間とともに、ヴァンの飛行機で脱出を試みる。彼らの呟きに「脱出しなければ、ここ2、3日うちになぶり殺される」とある。つまり、シャノン達も鬼気迫る状況にあった。しかしヴァンも傭兵であり、傭兵同士は互助精神があるらしく、シャノン達の救出を快諾する。
 そして、この暗闇の中の飛行場から命辛々抜け出すシーンから、この小説は始まる…。

 長くなったが、上記の描写が、何時の、何処の何をモデルにしているのか、今回紹介する室井義雄『ビアフラ戦争』を読了後、理解できた。作者は明言していなが、これは、ビアフラ戦争の、まさにビアフラ共和国が政府軍により滅亡されられる直前を描いているのだ。上空に政府軍としてミグ戦闘機が旋回しているのも、政府側がソ連かから戦闘機提供を受けていた史実と符合する。そのカリスマ的な「指導者」も実在するビアフラ共和国の指導者オジュク氏であることは明確であり、イギリスで教育を受けたことも実在の本人と同じである。さらに、戦争の経緯を本書で追うと、何とこの飛行場の名前まで特定できた。このシーンは、追い詰められたオジュク氏が数名の仲間と共に、当飛行場まで逃げてきたシーンなのだ。
 ビアフラ戦争は、1960年台後半に起こったナイジェリアの内戦である。ビアフラという東部地域が1967年に独立を宣言し、その独立を阻止しようとする政府軍との間で凄惨な戦争が起こった。そして、その戦争は、1970年のビアフラ共和国の滅亡まで続いた。犠牲者は200万人といわれており、彼のルワンダ大虐殺の犠牲者が約100万人とされているので、何と約その倍の犠牲者になる。
 しかもその200万人の犠牲者の大半は、戦死ではなく餓死者でなのだ。戦争後期、ビアフラ共和国は、四方を政府軍に封鎖されてしまい、物資調達が滞ってしまったのだ。
 『戦争の犬たち』には、その餓死による被害状況の一遍も表現されている。主人公シャノン達が脱出に使う飛行機には、アイルランド人の尼僧と連れの男達が便乗するのだが、各人が大きな包みを持っている。濡れて異臭を放つ毛布であり、その包みの一つからは、どろどろの便が流れ落ちている。実は、包みの中身は、栄養失調のためしなび、変形した40人の幼児でなのである。このようなことは、ビアフラでは現実で起こった。
 上記のような現実も含め、戦争に至るまでの経緯、経過、戦後の推移についてナイジェリアを舞台に簡潔に纏めているのが、本書である。200p程で、一連の流れを概説してあるので、ビアフラ戦争がどのような戦争だったのか、歴史的事実を学べる。著者は客観的事実を正確に報告しているため、描写的、感情的表現が少ないので、激烈に感情移入することはないが、何が、どのような原因で起こり、どのような結果になったのか、を学ぶのに最適と思われる。

 下記、簡単に戦争の原因と経緯、そして結果を本書を元に述べたい。
 まず、ナイジェリアには、大小370以上の民族が存在すると言われている。そもそもナイジェリアの国境は、その地を植民地支配していた列強達の思惑で引かれたものであり、国境設定にあたり、何らかの民族的エンティティが尊重された等の事実はないのだ。
 そのような多数の民族の中でも、三大民族と呼ばれる民族がある。それは、ハウサ-フラニ人(全人口比30%)、ヨルバ人(20%)、イボ人(17%)の3民族であり、この3民族で人口の7割近くを占めることになる。各民族が勢力が強い地域があり、大まかに言って、その勢力分布は、ハウサ-フラニ人は北全域、ヨルバ人は南西部、イボ人は南東部である。ナイジェリアは"三国志"なのだ。三国志風に言えば、ハウサ-フラニ人が"魏"、ヨルバ人が"蜀"、イボ人は"呉"となり、ごく簡略化すれば、ビアフラ戦争は、"呉"の独立戦争だ(三国志はすでに3つの国だが…)。
 簡単に各民族の特徴を紹介する。
 まず、ヨルバ人だが、土着の民族という印象を受ける。聖地イル−イフェと聖人オドゥドゥワ(全能の神オロルンの息子)を祖先持つという神話を共有することが民族のアイデンティティになっている。この民族はこの地域に、帝国を古くから成立させていた。特に、17〜18世紀に繁栄したオヨ帝国は、現在のナイジェリアの西部全域を支配していた。ただ19世紀初頭には、北方からフラニ人のジハード(聖戦)を名目した侵略を受け、支配地域は南方に動いていった。何とフラニ人との確執は200年以上の伝統があるのだ。また経済活動も伝統的に盛んであり、経済活動を通じてヨーロッパ商人やキリスト教伝道師と接触を持った影響により、キリスト教が最初に流入したのは、ヨルバ人社会である。尚、キリスト教徒はヨルバ人、イボ人の間で普及し、現在ではナイジェリアの全人口の35%がキリスト教徒である。
 次に、イボ人であるが、ヨルバ人のように王国を形成し、国家として行動する民族ではない。むしろ家族を最小単位とした共同体がいくつも集まり、代表者達の合議によって意思決定されていたようだ。つまり一人の指導者がトップダウン式に意思決定するのではなく、代表者たちの多数決で意志決定を行うという民主主義的な文化があった。そのせいか、その後西洋と接触したときにも、西洋的な文化の吸収にすぐれていたようだ。よってヨルバ人同様、キリスト教を信仰している人も多い。また、イボ人は民主主義的だけでなく、個人主義的、かつ進歩的であり、教育を重んじる文化で知られている。よって、多くのイボ人が事務職員、行政官、技師、商工人、教師としてナイジェリア全土の都市部に移住していた。その移住の背景には、居住地域の人口密度が高いという事実もあった。
 実は、このイボ人の拠点、ナイジャー・デルタ、つまりナイジャー川流域一帯が膨大な石油埋蔵量を誇り、凄まじい利権の温床となる。この事実が内戦の背景になる。それは後に見ることにする。
 最後に、ハウサ-フラニ人についてであるが、これは、ハウサ人、フラニ人と2つの類似する民族を一つに纏めてこう呼んでいる。最大の特徴は、イスラム教にそのアイデンティティを持つことだ。ハウサ人は、他の2民族と違い、現在もナイジェリアの北部一帯に加えて、ガーナ、ベナンニジェールなど、西アフリカ各国に広く分布してる。またフラニ人も、セネガルからチャド湖にいたる西アフリカ各地に居住している。その理由も歴史的経緯がある。1804年にフラニ人でイスラムの宗教的指導者ウスマン-ダン-フォディオが大規模な聖戦を開始した。そして、周辺の帝国を征圧し、イスラム首長国連邦としてソコト王国を成立させている。そんな中、ハウサ人はフラニ人と混血し、文化融合が起きた。"ハウサ-フラニ人"と一纏めにする理由はここにある。当然各首長国に居住する人々の規範は「シャーリア」だった。

 このように文化的にまったく違う3民族が居住する広大な地域が、当時植民地支配していた列強達の思惑で切り分けされ、現在のナイジェリアの国土の形が形成されていった。現在の国境が決まったのは1898年の第三次英仏協定である。
 そして、二つの大戦を経て、1946年に政治的に大きな変化があった。それは、当時ナイジェリアを植民地支配していたイギリスにより、この3民族の支配地域は"連邦"として、3つの政治的単位に分割された。西部、頭部、北部と3つの連邦である。そして、各連邦は、基本的に独自の立法、行政、司法機関と内閣を持った。

 そもそも人口が違う。宗教が違う。言葉が違う。社会形態が違う。絶対権威者の存在を認めるハウサ-フラニ人、強権ではないが指導者を望むヨルバ人、より自主性を重んじ民主的な意志決定を好むイボ人。また上述したようにヨルバ人はハウサ人に侵略を受けたという歴史的怨念もある。また、教育レベルが高く支配者層に就きやすいイボ人は、他の民族から嫉妬を持たれる傾向にあったらしい。

 そのように、大きく違う背景を持つ人間集団を、"一つの国"にする、など難しいに決まっている。しかし、国益の観点から、各民族集団の要望を叶えつつも、一つの国として纏め上げたいという宗主国イギリスがいた。連邦制への移行は、そんなイギリスの苦渋の決断だった。
 そして、1960年の独立を経てもこの状態は維持され、埋まらない民族間の亀裂が、人々の怨恨を地下水のように蓄積させた。今回のビアフラ戦争の背景には、その民族間の亀裂がある。

 そしてその亀裂に、ついに1966年臨界点が来る。1964年に行われた独立後初の総選挙運営を通じて、民族間の相互不信が激化、各地で暴力沙汰も相次いだ。
 そこで、1966年1月、政治不信を一掃するという大義名分で、イボ人の中堅将校を中心としたクーデターが勃発する。「一月クーデター」と呼ばれ、当時の政府軍幹部をほぼ皆殺しの凄惨なクーデターだ。しかし、軍のトップを逃がすというミスを犯し、ある意味クーデターは未完に終わる。そのトップは不安定化した軍部を統制する中で、次第に政府に対する発言力を高め、政権を自分の手中に治めていく。。
 実は、この事件は深い。なぜなら、その"トップ"はイボ人なのだ。そのクーデターは"未完"なのだが、結局イボ人が政権を取ったのだ。このクーデターは、本当に"未完"だったのか。それとも、すべてイボ人が政権奪取のための綿密なシナリオだったのか。それは、今は歴史の闇に消えつつある。
 いずれにせよ、政府内で民族的均衡は崩れ、住民の間でも他民族に対する不信感が増大していく。
 そこで同じ年1966年の7月、今度は、北部を拠点とするハウサ-フラニ人の下仕官達がクーデターを起こす。「七月クーデター」と呼ばれるこのクーデターにより、当時軍部の中心的立場だったイボ人将校や兵士達が多く殺害される。そして、この出来事はここで終わらない。他民族の中の"イボ人不信"を爆発させ、ナイジェリア各地で民間人が虐殺されはじめる。1万人近い人々が虐殺され、150万人以上の難民が発生した。
 それらの状況を鑑み、東部州の知事で、イボ人の指導的人物だったオジュク将軍は、独立への道を進み、1967年5月、独立を宣言する。勿論、国家分裂を阻止するため、各地域の首脳間で多くの交渉が持たれ、様々な妥協案が提案されたようだが、オジュク氏の独立に対する意志は硬かった。
 このオジュク氏の態度の背景には、もう一つ長期的に顕在していた事情があった。当時ナイジェリアは農作物と石油の輸出収入と法人税が主な収入であったが、イボ人は双方について、大きな稼ぎ頭だった。イボ人が支配する東部は、ナイジャー・デルタ、つまりナイジャー川流域一帯を有し、この地域はアフリカでも有数の石油採掘地域である。そして肥沃な地域では豊富な農作物が収穫され、また企業家精神に富むイボ人は企業活動の面でも活躍していた。よって、イボ人を中心とした東部は全人口の中の22%程の人数なのに、ナイジェリアの輸出収入35%以上を稼ぎ出していた。それにも関わらず、そのイボ人居住地域に国から還元される額は、その半分14%程であった。
 そのようなもともとあった不満の上に、今回の一連の凄惨な事件である。この事実がオジュクを強行に独立に向かわせたことは想像に難くない。
 そして、1967年7月、政府軍の南北3拠点からの攻撃開始により、ビアフラ戦争は開戦した。一国の同胞が殺しあうこの戦争は、2年の間続く。通常戦闘に加え、奇襲攻撃、味方の謀反、双方の協力した白人傭兵の活躍等、数々の劇的な展開を経ながら、ナイジェリアの地を焦土と化していった。
 この戦争を長期化したのは、やはり冷戦自体の紛争の慣わし通り、双方の"スポンサー"であった。この戦争については、ある意味面白い布陣になっている。イギリス、ソ連アメリカ、多くのアフリカ諸国が政府側を、そして、フランス、ポルトガルイスラエル、中国、ハイチ、および一部のアフリカ諸国が、ビアフラを支援した。それらのスポンサーが多くの義捐金、兵器補助を双方の国に提供した。その支援がなければ、戦争がより短期で終了していた可能性が高かった。
 しかし、圧倒的な戦力を誇る政府軍の前に、善戦を続けてきたビアフラ共和国軍も徐々に主要都市を陥落され、劣勢に立たされる。そして、生き残った首脳達の総意で、オジュク将軍を国外に脱出させることになる。そしてオジュク将軍は少数の閣僚とともに、ウリ空港から空軍機でコートジボアールに脱出する。『戦争の犬たち』の冒頭のシーンは、まさにこの瞬間をモデルにしたのだ。
 そして、オジュク将軍が脱出した2日後の1970年1月12日、ビアフラ共和国最後の生命線であったウリが陥落し、ビアフラ共和国は滅亡する。このシーンについて、下記本書からの抜粋だ。

 同日の午後4時半、臨時国家元首代理となったエフィオング少将が、ラジオ-ビアフラでベートーヴェン交響曲第7番*1を流したのち、降伏を宣言した。「私はいま、流血を止めて、われわれ人民の受難を直ちに終結させるべきことを悟った。われわれが必要とする時にはいつでも、神がわれわれを救うであろう」。こうして、2年半にも及んだ熾烈な内戦がここに終結したのである。(129p)

 正確な数字は誰もわからないが、ビアフラ戦争を通じて、戦死者20万人以上、空爆などによる民間人の死者2万人以上、そして150万人以上の餓死者、総計約200万人の被害者を生んだと言われている。国家を根本から揺るがす大戦争だった。
 しかしある意味、国家の"根本"は揺らいだが、今日に至るまで変わっていないのかもしれない。
 というのも、現在も連邦の数が変わり、地方行政も改善が見られているが、基本的な政治構造は変わっていないのだ。クーデターが頻発し、部族対立、宗教対立を原因とする暴動、虐殺は、今に至ってもあとを絶たない。
 特に、1995年11月には、旧ビアフラ共和国内の少数民族、オゴニ人出身の劇作家で、ノーベル平和賞候補者でもあったK・サロ-ウィワがほかの活動家8名とともに、当時のS・アバチャ軍事政権に処刑されたことは世界に衝撃を与えた。オゴニ人はナイジャー・デルタ頭部の産油地帯に居住する民族であるが、彼らは油田開発のために農地を奪われ、居住環境を破壊されてきた。彼らの居住する地域で産出される石油収入は、シェルBP石油等の国際石油資本にわたるか、三大民族中心の連邦政府にわたり、オゴニ人には正当な恩恵が渡ることがなかった。そこでサロ-ウィワは、石油資源の正当な配分と自治権を要求し、自らの生活を守る権利を要求する活動を行ったのだ。しかし、彼は特段に独立等の急進的な要求したわけではない。それなのに、死刑である。これがナイジェリアの現実なのだ。
 ナイジャー・デルタの石油は現在に至っても巨大な利権であり、それは昨今の国際金融の中で、良くも悪くも大きな商材となっている。つまり、我々にとってビジネス上でナイジェリアと関わりを持つ可能性は以前と比べて高くなっている。
 黒木亮『巨大投資銀行 (下) (ルビ:バルジブラケット)』では、投資銀行家である主人公の桂木が、ナイジェリアに出張するシーンがある。以下その抜粋だ。

 1995年4月、桂木英一は、ナイジェリア南東部ニジェール・デルタの油田地帯を低空で飛ぶヘリコプターの機内にいた。
 ナイジェリアは、OPEC(石油輸出国機構)屈指の石油大国だ。原油生産量はクウェートベネズエラと肩を並べる日量183万バレル。その8割が眼下のニジェール・デルタ地帯から抽出されている。
 (中略)
 眼下に、今まで見たこともない光景が広がっている。
 茶色い泥水に浸かった湿地帯。くすんだ緑色の森林地帯。椰子の木が多い森の中を無数の川が流れ、灰色に濁ったギニア湾へと注いでいる。その茶色い風景の中に、石油掘削リグや緑色の石油タンクが点在し、地表や紅白の縞模様の櫓の上で、随伴ガスを燃やす炎が地獄の業火のように赤々と燃えている。
 空は灰色の雲に覆われ、機内にはねっとりした湿気が充満していた。(黒木亮『巨大投資銀行』下巻、119p)

 主人公桂木が、当地で計画とするビジネスは、ナイジェリアで操業している米系石油会社がチャーターするVLCC(Very Large Crude oil Carrier)のファイナンスだった。このようにグローバル経済の住人である以上、職業人生の中でナイジェリアを一例とするアフリカ諸国と密接な関係になる確立は、飛躍的に高まった。そんな時、我々は、ビアフラ戦争をはじめ重厚な歴史が地面に染みこんだ国土を舞台にビジネス展開するのだ。
 私は、その舞台となる国の歴史の造詣を深め、少なくとも相手方のその土地にどのような涙が染み込んでいるのかくらいについては、想いを馳せながら行動することが、ある意味、先進国民の責務だ、と考えている。
 上記の潜在的なビジネス上のコンタクト以外に、ビアフラ戦争は、実は現在の東京の街並みにも間接的に影響を与えている。この点は、その影響について語った書籍:松本仁一アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)』の書評として次回紹介しよう。一言でいうと多くのイボ人の方が日本に働きに来ているのだ。
 尚、フレデリック・フォーサイスのノンフィクション『ビアフラ物語―飢えと血と死の淵から (1982年)』も机上にあるので、近日中に読書を開始し、読了後書評を公開したい。今回紹介した本より、描写的な表現が多そうであり、楽しみである。私のビアフラ戦争に対する印象がどのように変動するのだろうか。

 最後になるが、著者は"あとがき"において、一曲フォークソングを紹介している。それは、新谷のり子『フランシーヌの場合』である。この曲は、ビアフラ戦争(そして、ベトナム戦争)に抗議して焼身自殺したフランス人女子学生、フランシーヌ-ルコントをモチーフにしている。悲しい調べが胸に残る。


[読書候補本メモ]

ナイジェリアの獄中から―「処刑」されたオゴニ人作家、最後の手記

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Sozaboy (Longman African Writers Series)

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